板高

私の出身高校。
東京都都立板橋高等学校の新聞掲載記事です。
毎日新聞1998年3月20日12面より抜粋
≪ 東京都立 板橋高等学校 の紹介文 ≫
師に導かれ、学んだ「自主、自律」

営団地下鉄有楽町線・千川駅から徒歩5分。板橋区大谷口に校舎を構える都立板橋高等学校は、今年、創立七十周年を迎える。「自由の中にも規律ある生活」がモットー。創立以来、つねに校内はリベラルな緑風が吹いている。
深沢留一先生
織井貴志江先生
古沢伸世先生
山口国光先生
浅沼清先生
長岩寛先生
石川弥佐郎先生
岩田幸彦先生
西尾洋一郎先生
山口恭二先生
平野元一先生
外園良一先生
宮原修先生
木津淑子先生
土屋三雄先生
 板橋高校の前身は、昭和三年創立の北豊島郡板橋町立実科高等女学校。二十一年に都立板橋高等女学校ど改称され、二十三年に都立板橋新制高校に改められた。現校名になったのは二十五年のことだ。「千川堤の桜並木に囲まれたきれいな学校でした。木造で、歩くと「キ―キ―」と音をたてましたが、それも懐かしい思い出です」と在学当時を懐かしむのは昭和三十六年卒業の0B。

古い時代の卒業生には懐かしい木造校舎は、鉄筋校舎へと徐々に姿を変えていった。

「校舎が四列に並んでいたためか、渡り廊下が多く、少し複雑な造りでした。入学当初、教室に戻る時に迷ったほどです。その分、落ち着ける場所もたくさんありましたね。制服もなく、のびやかな雰囲気でしたよ」(昭和58年の卒業生)

「思い思いの格好で楽しかった」という私服通学は約二十年間続くいた。平成二年に標準服が導入されたが、自由な雰囲気が失われたわけではない。「時代にマッチして軽やか」と生徒の評判も上々で、新しい息吹と活気を校内に生み出している。

平成に入ると板橋高校の動きは活発となった。特に施設面の充実ぶりは目を見張る。平成元年に校舎・体育館の改修工事を行い、翌二年に・LL教室が完成。四年にはテニスコートを、五年には最新設備を整えた二階建てのピロテイ方式トレーニングルームを、六年にはパソコン教室を設置した。恵まれた環境で、生徒は勉強にスポーツに、自らの可能性を信じ、力強くチャレンジしている。

個性豊かな教師陣が、板橋高校の高史を支えてきた。

「充実した毎日を送り、有意義な青春時代を過ごせ」とハッパをかけた深沢留一先生(日本史)は昭和二十五年がら五十三年まで在籍した。着任後、すぐにバスケットポール部を創設。パイタリティーにあふれ、ざっくばらんな明るい人柄で、生徒の中に溶け込んでいた。ジョークを織り込んだ、楽しい授業を心掛け、職員室にいるときも、だじゃれをとばすなど、先生の周りは、笑いが絶えなかった。

昭和二十七年から二十年間教べんをとった織井貴志江先生は、世界史を担当した。歯切れのいい口調でテキバキと進めるエネルギッシュな授業は、男性教師顔負け。「板橋の生徒はみな、素直で純朴でした。修学旅行の時、電車の車掌さんから「おとなしく礼儀正しい生徒ばかりですね」と、お褒めをいただいたことが何度かあります」と語る。

国語の基本は教科書の朗読

 「国語の基本は教科書の朗読」という考えのもと、言棄を重視する授業を展開したのは古沢伸世先生(国語)。その信念は、顧問を務めた演劇部でも、セリフの言い回しの指導に生かされた。生徒と一緒に映画を見たり、能の鑑賞やお寺巡りに出かけるなど、生徒の感性を養い、視野を広げることも忘れなかった。京都大学出身の山口国光先生(化学)は薩摩隼人。水素ガスの実検中、誤って空気が入ってしまい爆発が起きた時、とっさに自分の体でガラスの破片が飛び散るのを防ぐなど、生徒思い。在職中に逝去されたときは、多くの涙を誘った。「新種の果物を栽培しようとされるなど、進取の気象にあふれていました。結局は失敗でしたが、いろいろと教えていただき、ためになりました。先生の思い出は尽きません」(昭和45年の卒業生)

「教師は高いところから生徒を見下ろすのではなく、一緒に勉強していくという気持ちが大切」と語るのは浅沼清先生(数学)。「どのように教えたら理解できるか」をいつも考え、丁寧な指導を続けた。山岳部の顧問。

現在、明治大学経営学部の教授として活躍する長岩寛先生(英語)は、「高校で教べんをとったのは最初で最後だったので懐かしいですよ」と語る。文芸部、演劇部を指導した。英語部では、文化祭で披露し大成功を収めた英語劇「タ鶴」の演出を手がけたことが一番の思い出という。

石川弥佐郎先生(歴史)は細かいことには口出しせず、生徒の自主性を尊重した。

“ガンタ”の岩田幸彦先生(体育)はおしやれ。冬場は、トレンチコートにハンチングがトレードマークで、生徒の注目を浴びた。

歩いて帰れないほど猛練習

 大学の講義を思わせるようなハイレぺルな授業を展開した西尾洋一郎先生(英語)は物静かな学究。丁寧な指導には定評があり「大学受験では大変助かりました」と話す卒業生は少なくない。板高の昭和三十一年の卒業生、山口恭二先生(英語)はスマートでダンディー。温厚で、「声を荒らげたことがない」と、卒業生は口をそろえる。「進学の時、相談に行くと、いろいろな資科を調べて、親身になってアドバイスしてくださいました」(昭和42年の卒業生)

熱血漢の平野元一先生(体育)は、バレーポール部を率いた。「試合になると、生徒よりも熱くなっていました。ぺンチから生徒に芦をかける時も、名前を三回は間違えていましたよ」(昭和56年の卒業生)

放送部の顧問を務めた十河淳先生は物理を担当。懐が深く、包み込むように生徒に接した。「気さくな優しい先生で、生徒の気持ちを理解してくださいました。相談に行くと、いつも親身になって応じてくださいました」(昭和55年の卒業生)

「歩いて帰れないほど、練習ではしごかれましたね。口調は荒っぽかったですが、兄のようなやさしさがありました」と昭和五十六年卒業の柔道部OBが語る外園良一先生(体育)の愛称は”モンチッチ”。厳格なことで知られ、無駄話をしている生徒はすぐ一列に正座させ、ときには鉄拳をふるうこともあったが、人望は厚く、卒業生の結婚式に呼ばれる回数は板橋高校の教師の中でも一、二を争う。「結婚式のスピーチの席で、『旅の夜風』を高らかに四番までうたった姿は、いかにも先生らしくて、いまも心に残っています」(昭和56年の卒業生)

体育では宮原修先生の名もあがる。軟式野球部監督を長年務め、昭和五十二年に全国大会ぺスト8、国体でも三位に導くなど、指導カには定評があった。「勉強に運動に、頑張る生徒が多かったですね」と当時を懐かしむ。

「私は音大志望だったのですが、放課後だけでなく、先生のお宅でも指導していただきました」と昭和五十八年卒業のOGが感謝するのは木津淑子先生(音楽)。母親のような温かさが心に残る。

平成元年まで在籍した土屋三雄先生(数学)は親身でわかりやすい指導を実践。毎時間十人ほどを指名して問題を解かせ、詳しく解説。パスケットポール部の顧問も務めた。

「担任でないクラスの生徒でも名前を覚えていて、よく声をかけてくれるんです。親近感を覚えましたね」(昭和54年の卒業生)

夜空を焦がす ファイアーストーム

 高校生活をより充実したものにする学校行事にも板高らしさがうかがえる。長野県の籠ノ登山荘を利用した一年次のホームルーム合宿や二年次のサマースクール。スポーツ大会、体育祭、スキー教室…。なかでも、ハイライトは九月に行われる「板高祭」だ。クラスやクラプ単位のほか、有志参加による出し物が目白押しで、夜空を焦がすファイアーストームで幕を閉じる。板高生はクラプ活動にも意欲的だ。城北大会で優勝に輝いた実績を誇るソフトポール部や、都大会で準優勝を果たした軟式野球部、都高等学校吹奏楽コンクールで銀賞を受賞した吹奏楽部など、各部が好成績を残している。

生徒会活動も盛んで、空き缶回収運動などのポランティア活動に取り組んでいる。

漫画家の永井豪さんや、俳優の古谷一行さん、村野武範さん、作家の吉本ばななさんなどの著名人も板高の卒業生。七十年に及ぷ板橋高校の歴史の中で、「自主、自律」を学んだ卒業生は一万八千人を数える。